ロベール1世 (フランドル伯) (Japanese Wikipedia)

Analysis of information sources in references of the Wikipedia article "ロベール1世 (フランドル伯)" in Japanese language version.

refsWebsite
Global rank Japanese rank
low place
low place

wikipedia.org

en.wikipedia.org

  • エノーの年代記編者ジルベール・ド・モンス英語版による著作によれば、ボードゥアン5世は相続領のうちフランドルを息子アルヌールに与え、エノーを弟ボードゥアンに与えたとされているが、この内容には勅許状による裏付けが存在しない。これと同様に、ボードゥアン5世がロベール1世を信頼しアルヌール3世を彼に託したとするジルベールの主張を裏付けるものがないとされている。
  • .フィッツオズベルンがカッセルの戦いに参戦した理由は数ある年代記の間で大きく異なっている。ノルマン人聖職者ロベール・ド・トリニー英語版は自身の著作の中でフィッツオズベルンはマティルダ妃の要請を受けて戦いに参加したと記しており、12世紀のイングランドの歴史家マームズベリーのウィリアムはフィッツオズベルンがリシルドと恋に落ちていたことが参戦の理由であると述べている。しかし11世紀のノルマン人作家ギヨーム・ド・ジュミエージュ英語版はフィッツオズベルンは自らの意思でカッセルでの戦闘に加わったと述べている。これについて、現代の歴史家Heather Tannerは、ウィリアム・フィッツオズベルンはウィリアム征服王の顧問的立場の人物であり王の同意無しに王国を離れることはそう簡単にできることではなかったと推測されることから、ロベール・ド・トリニーの説明が最も正確であろうとの見解を示している。
    (歴史関連著作『Families, Friends, and Allies: Boulogne and Politics in Northern France and England c.879–1160』 (ブリル社 2004年)の103–4ページ・138ページ周辺を参照。)
    アルヌール3世はウィリアム征服王の甥であったことから、王自身、またはマティルダ王妃がカッセルにノルマン軍を派兵したと考えることは道理に叶う。しかし、イングランド人年代記編者オルデリック英語版とロベール・ド・トリニーの両者は、共に自身の年代記の中で『フィッツオズベルンは小規模の兵士しか連れていなかった (オルデリックによれば騎士10騎) 』と記していることから、フィッツオズベルンはウィリアム征服王が有していたフランス王フィリップに対する封建的責務を果たすためにカッセルに派遣されたと考える歴史家も存在する。
  • 1066年以前のイングランド・フランドル間、ノルマンディー・フランドル間の関係性は複雑に混み合っており、フランドル伯がイングランド・ノルマンディーからの亡命者の受け入れを容認していたことによりその関係性が改善されることはなかったが、常に険悪であったわけでもなかった。もちろん、両家間の確執は存在していた。
    レスリー・エイブラムス英語版の著作『England, Normandy and Scandinavia』やクリストファー・ハーパー・ビル英語版/エリーザベト・ファン・フーツ英語版の著作『Companion to the Anglo-Norman World』(Boydell Press社出版 2002年)の43-62ページを参照。
    フィリップ・グリアソン英語版は自身の論文『Relations between England and Flanders before the Norman Conquest』(1941年発表)において、ノルマンコンクエスト以前もイングランドとフランドルは友好関係にはなかったと記している。ルネ・ニップも自身の著作『Anglo-Norman Studies 21』(1991年出版)において、ノルマンコンクエストに多くのフリース人が参加し、ノルマン諸侯とフランドル諸侯が結婚を通じ関係を強化したという事実があるにも関わらず、イングランド・フランドル間の関係性が好転することはなかったと付け加えている。しかし、その後両国間の商業的関心が高まったことを受けて状況は劇的に変わった。中世ヨーロッパの歴史家デイビット・ベイツ英語版に関する著作『Normandy and its Neighbours, 900–1250: Essays for David Bates』(Brepolis社出版 2011年)も参照。