アッバース朝の小アジア侵攻 (806年) (Japanese Wikipedia)

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  • タバリーや他のイスラーム教徒による文献では、おそらくはそれまでに支払われた貢納金の返還を要求したと考えられるニケフォロス1世の手紙と、ハールーンを「ビザンツ人の犬」(kalb al-Rum)と呼んだニケフォロス1世へのハールーンの簡潔な返答の文章を記録している。「異教徒の女性の息子よ、私はあなたの手紙を読んだ。あなたは返事を聞かなくともいずれそれを目にすることになるだろう。さらば!」[9][10][11]。ビザンツ側の資料では802年か803年にそのようなやり取りが行われたという記録はない[8]。ビザンツ帝国の年代記作家であるゲオルギオス・ハマルトロス英語版のみが、804年か805年の出来事に関する説明の中で、ニケフォロス1世がハールーンに対して手紙を書き、その中でニケフォロス1世は融和的な表現でハールーンにキリスト教徒を保護するためにムハンマドが発した禁令を思い起こさせ、さらには休戦を提案し、ハールーンはニケフォロス1世が送った贈り物に報いて休戦を受け入れたとしている[8][12]。東洋学者で歴史家のマリウス・カナール英語版は、大抵の場合ほぼ間違いなく史実ではないとして双方の手紙の内容に関する記録は受け入れられていないものの、二人の君主の間で書簡のやり取りが存在していたことは事実と見なされるべきであると強調している[13]
  • ビザンツ皇帝コンスタンティノス7世(在位:913年 - 959年)が著した『帝国統治論英語版』によれば、この時期(具体的な日付は与えられていない)にスラヴ人によるペロポネソス半島のパトラスへの襲撃(パトラス包囲戦英語版)があったことが記されているが[46][47]、具体的な日付は、パトラスが再建されたとする記述があるモネンヴァシア年代記英語版による805年か、アラブ艦隊がギリシア南部へ到達した807年の出来事であると考えられている[48][49]