アブドゥルマリク (Japanese Wikipedia)

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  • Lilie et al. 2013. Lilie, Ralph-Johannes; Ludwig, Claudia; Pratsch, Thomas; Zielke, Beate (2013). "'Abd al-Malik". Prosopographie der mittelbyzantinischen Zeit Online. Berlin-Brandenburgische Akademie der Wissenschaften. Nach Vorarbeiten F. Winkelmanns erstellt (ドイツ語). Berlin and Boston: De Gruyter.

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  • アミール・アル=ムウミニーンAmīr al-muʾminīn,「信徒の長」の意)は、硬貨、碑文、および初期のイスラームの文学的伝統において、アブドゥルマリクの公的な称号として最もよく言及されているものである[1][2][3]。一方で690年代中頃に鋳造された多くの硬貨、総督のアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフからの書簡、そして同時代の詩人であるアル=アフタルジャリール・ブン・アティーヤ英語版、およびアル=ファラズダク英語版による詩の中で、アブドゥルマリクはハリーファト・アッラーフ(khalīfat Allāh,「神の代理人」の意)として言及されている[4][5]
  • 歴史家や貨幣学者の間では、693年から697年にかけてアブドゥルマリクが鋳造した硬貨(「直立したカリフ」の呼び名で知られている)に描かれている人物はアブドゥルマリク自身であるというのが一般的な見解である[6]。その一方で歴史家のロバート・ホイランド英語版は、当時におけるイスラームの預言者ムハンマドの描写である可能性を論じている[7]
  • アブドゥルマリクはヒジュラ暦ラマダーン月に生まれたとするのがイスラームの伝承における一致した見解であるものの、正確な年代と日付までは明らかではない[9]。一連の伝統的な史料の中で、ヒジュラ暦23年(644年)としている歴史家は、マダーイニー英語版(843年没、タバリー(923年没)による引用)、ハリーファ・ブン・ハイヤート英語版(854年没)、バラーズリー英語版(892年没)、およびイブン・アサーキル英語版(1176年没)である。一方でヒジュラ暦26年(647年)としている歴史家は、ワーキディー英語版(823年没、タバリーによる引用)、イブン・サアド英語版(845年没)、イブン・アサーキル(ヒジュラ暦23年説とともに取り上げている)、イブン・アル=アスィール(1233年没)、およびスユーティー英語版(1505年没)である[10]
  • アブドゥルマリクが参加した662年頃のビザンツ帝国に対する冬季の海上の軍事作戦ではシリア人で構成された別の海軍部隊も参加しており、このシリア人部隊の指揮官はブスル・ブン・アビー・アルタート英語版もしくはアブドゥッラフマーン・ブン・ハーリド・ブン・アル=ワリード英語版であった[19]。歴史家のマレク・ヤンコヴィアクによれば、ムアーウィヤ1世(在位:661年 - 680年)の治世中のビザンツ帝国に対するアブドゥルマリクの軍事的役割は、ほとんどのアッバース朝時代における反ウマイヤ朝のイスラームの伝承では「抹消」されている。しかし、10世紀のアラブ人キリスト教徒の年代記作者であるヒエラポリスのアガピオス英語版によって伝えられている他のイスラームの伝承の中でアブドゥルマリクに関する記録が残されている[20]
  • アラビア語でジャラージマと呼ばれる民族的出自のはっきりしないキリスト教徒の集団であるマルダイテスの故地は、シリア沿岸の山岳地帯、すなわちアマヌス山脈英語版レバノン山脈、およびアンチレバノン山脈であった。マルダイテスはこれらの地でかなりの自治権を保持し、アラブとビザンツ帝国の国境地域の政治状況に応じて名目的な忠義の対象をイスラーム国家とビザンツ帝国の間で相互に入れ替えていた[47]
  • 当時、半ば独立していたイブン・アッ=ズバイル支持派のホラーサーン総督のアブドゥッラー・ブン・ハーズィム英語版は、692年初頭に自分の総督の地位の承認と引き換えにカリフを承認するというアブドゥルマリクによる取引の嘆願を拒否した[68]。しかし、アブドゥッラー・ブン・ハーズィムはその後すぐに配下の指揮官の一人であるバーヒル・ブン・ワルカーの反逆に遭って殺害され、その首はメルヴの副総督のブカイル・ブン・ウィシャーフによってカリフの下に送られた。その後、アブドゥルマリクはブカイルにホラーサーン総督の地位を与えた[69]
  • 691年の和解の後、692年から694年にかけてカルブ族とヒジャーズのカイス系部族であるファザーラ族英語版の間で暴力行為が再燃した[113]。一方でカイス系のスライム族英語版とヤマン系のタグリブ族の間の血の抗争は692年まで続いた[114]。アブドゥルマリクはこの二つの抗争に介入し、最終的には経済的な補償と軍事的な圧力、さらには部族長たちの処刑といった手段を通してこれらの報復的な襲撃の応酬に終止符を打った[115]
  • 道路建設におけるアブドゥルマリクの功績を讃える碑文を含んだすべてのマイルストーンは、北から順にフィーク英語版サマフ英語版ワジケルトの聖ゲオルギオス修道院、ハーン・アル=ハスルーラ、バーブ・アル=ワーディー英語版、そしてアブー・ゴーシュ英語版で発見された。年代はサマフで発見されたマイルストーンが692年、フィークで発見された二つのマイルストーンがいずれも704年であるが、残りのマイルストーンの年代は不明である[141]。アブドゥルマリクの死後すぐに作られたと思われる8個目のマイルストーンの断片は、アブー・ゴーシュのすぐ西に位置するエイン・ヘメド英語版で発見された[142]