ウルグダイ (Japanese Wikipedia)

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  • 维基百科には「又因曾任督堂,又以汉姓,故又被人尊称为王督堂。」とあるが、典拠不詳。
  • マングジとウルグダイの婚姻と、明朝からの譴責は、史料によって順序が前後している。明朝の史料 (明實錄、東夷考略) では明朝からの譴責の後にマングジを嫁がせているが、清朝の史料 (滿洲實錄、清實錄、清史稿) ではマングジが嫁いでから明使が来ている。また、その具体的な年月もはっきりしない。清朝の史料では「辛丑春正月」(万暦27) に婚姻と記載があるが、明朝の史料には年月の記載がなく、また、使者を送った時期についても万暦28年4月と29年7月の間となっていて、28年なのか29年なのか判然としない。维基百科では清朝の史料の説をとって、29年正月に婚姻、そのあとに明使が来たとしている。本項では、婚姻については清朝の説をとり、使者の到来時期については明朝の史料の説をとり、具体的時期は28年中とした。
  • 维基百科より引用。典拠なし。
  • 维基百科では「光海君所遣使者『厅』判事官」としているが、『滿洲老檔』では「Solho王の使者『鄭』判事官人」となっている。満文は「solho han i elcin『ting』pan xi hafan」で、「ting」を現代中国語の拼音読みしたことによる誤認か (「厅」は拼音で「tīng」と表記される)。
  • 维基百科では「总兵官巴都里、额尔德尼等五大臣」としているが、マンジュ (後金) 五大臣は費英東 (グヮルギャ氏フュンドン)、額亦都 (ニュフル氏エイドゥ)、何和理 (ドンゴ氏ホホリ)、扈爾漢 (トゥンギャ氏フルガン/ダルハン・ヒヤとも)、安費揚古 (ギョルチャ氏アンバ・フィヤング/ションコロ・バトゥルとも) なので、おそらく誤訳。

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