エイジャックス (軽巡洋艦) (Japanese Wikipedia)

Analysis of information sources in references of the Wikipedia article "エイジャックス (軽巡洋艦)" in Japanese language version.

refsWebsite
Global rank Japanese rank
low place
low place
5,913th place
2,682nd place
554th place
50th place

amazon.co.jp

  • 高田 泰光 編『第2次世界大戦のイギリス軍艦』 2016 No.839、海人社〈世界の艦船6月増刊号〉、2016年5月17日、73頁。ASIN B01EYMD2LI 

hoover.org

hojishinbun.hoover.org

wikipedia.org

en.wikipedia.org

  • 二等巡洋艦“オリオン Orion”[1] 全要目{排水量7,070噸 速力32.5節 備砲 15.5糎砲8門 10糎高角砲4門 魚雷發射管8門(53糎水上4聯装) 起工1931年9月 竣工1934年1月 建造所デボンポート海軍工廠} “レアンダー號”と同型艦。以上の要目の外に兵装として3ポンド砲4門その他小砲18門を有し、搭載飛行機は雷撃機1機、これが發艦用としてカタパルト1基を備へてゐる。/ 全長165.65米、幅16.81米、平均吃水4.87米。所謂ロンドン條約型と云はれてゐるもので現在米國の有つ既成二等巡洋艦中の最新鋭である。尚英國には建造中のものに“アンフイオン Amphion” “エージャックス Ajax” “アレスーサ Arethusa” “アポロ Apollo” “シドニー Sydney” “ガラテア Galatea” “ペネロープ Penelope”の7隻と未起工のもの5隻がある。未起工のものは何れも9,000噸型のもので15糎砲を搭載し恰も我が二等巡洋艦最上級に匹敵するものである。
  • 先代は[3]キング・ジョージ5世級戦艦エイジャックス (HMS Ajax) であった[4]ワシントン海軍軍縮条約により[5]、1926年に廃棄された[6]
  • 獨艦スペーの行動[10] 一九三九年九月三十日、イギリスの汽船クレメントは、ブラジル沖のペルナンプコ附近で打沈められた。/ この報に接したイギリスの海軍省は、翌三十一日、同方面の英國汽船に警報を發して、ドイツの通商破壊艦が南米の東海岸沖に出没しつゝあることを知らせた。この警報には、ドイツの通商破壊艦が何艦であるかについては、何も語るところはなかつたが、これにも拘らず、右のクレメント號の乗員達が上陸した十月二日には、イギリスの或新聞は、右の獨艦を「豆戰艦」であると書いたものもある。/ この事件について、英國海軍省が、どんな處置をとつたかについては、われわれは知るところはない。たゞ組織だつた捜索が行はれてゐることと、南米の東岸沖には、代将(後に少将となる)サー・ヘンリー・ハーウードの指揮する三隻の英國巡洋艦があることだけはわかつてゐた。/ この三隻といふのは、ハーウード司令官の旗艦アヂャックス(艦長ウードハウス大佐、七〇〇〇噸、三十二節半、六吋砲八門)と、同艦の姉妹艦で新西蘭艦隊の一艦アキレス(艦長バーリー大佐)、並に、開戰と同時に再就役したエキセター(艦長ベル大佐)である。この三隻のうちで、エキセターは最大の巡洋艦で、八四〇〇噸、三十二節、六門の八吋砲をつんでゐた。
     ところで、ドイツ豆戰艦の脅威といふことは、極めてあり得べきことであつた。ドイツは、さういふものを三隻も持ってゐる。これ等は何れも噸數は一萬噸で、二十六節の速力と、六門の十一吋砲、八門の五.九吋砲をもつてゐる。この艦種は、どんな巡洋艦よりも大きな大砲をつみ、その防禦も良好で、現在の如何なる戰艦よりも大きい速力をもつてゐる。この豆戰艦より大なる大砲を有し、且優速をもつてゐるものは、イギリスの巡洋戰艦フードリナウンレパルスの三隻と、フランスの戰艦ダンケルクストラスブールの二隻のみである。/ この豆戰艦の一隻アドミラル・グラフ・スペーは、その乗組員の一人が書いた日記によれば、八月の二十一日に、ドイツの軍港ウヰルヘルムスハーフエンを出てゐる。同艦は、それからデンマークとノルウェーの沿岸を傳ひながら、アイスランドとファロー群島の間を通つて、大西洋に出た。(以下略)
  • 二月十五日エキゼターはプリマスに到箸し、同艦も亦盛なる歡迎を受けた[48]。チャーチル氏は第一海軍軍事委員及びサー・ジョン・シムソンを伴ひ、同艦を歡迎する爲め同港に到り、乗員に對して一場の挨拶を行つた。二月二十三日アジャックス及エキゼターからの派遣隊は倫敦に到り、近衛騎兵觀兵式を擧行せられて國王の閲兵を受けた。此の時國王はリヴァープレート沖の會戰に際して功績ありし人々に對し勲章授與式を行つた。エキゼター、アジャックス兩艦の派遣隊は、それよりギルドホールに於いて倫敦市長の招宴に列し、同時にアキレスの乗員はオークランドに於ける市の時宜に適せる歡迎會に列した。/ 是等の祝典に相應はしき追記としてアドミラル・グラーフ・シュペーの殘骸は同地方にて解體して約千磅で賣却されたことが其の後發表された。(以下略)
  • パース級軽巡の「シドニー」 は[1]、元はリアンダー級軽巡の「フェートン」であった[50]
  • クレータ島沖海戰 伊英海軍の兵力量比較 英有利の原因は空軍利用[7] 英海軍當局談によれば三月二十七日より二十八日にかけて行はれたクレータ島沖の英伊海戰に参加した兩軍兵力は イギリス側 ― 地中海艦隊司令長官カニンガム大将直属の十五インチ砲戰艦ウオースパイトヴアリアントバーラムの三隻新鋭航空母艦フオーミダブル(二七,〇〇〇トン)プリダム・ウイツペル少将麾下の輕巡戰隊オライオンエージャツクスパースグロスターの六インチ砲巡洋艦四隻および驅逐艦隊、ギリシヤの驅逐艦隊より成りこれに對し/イタリア側 ― 戰艦三隻、巡洋艦十一隻、驅逐艦十四隻であつたと(以下略)(記事おわり)
  • 「アキリーズ」はインド海軍の「デリー」となった。
  • Hoji Shinbun Digital Collection、Shin Shina, 1922.02.26、p.3、2023年7月17日閲覧 〔 海軍軍備制限條約 外務省公表(中略)英帝国は基準排水量三万五千噸を越えざる主力艦二隻を建造することを得べく其の完成を俟ちてサンダーラーキングジョージ五世エージャツクスセンテユリオンを廢棄すべし(以下略)〕

de.wikipedia.org

  • 敵艦見ゆ![26](中略)それからの四日間は、スペーは南西に航してプレート河口方面に向ふつた。艦長ラングスドルフ大佐は、同方面で英艦の一又は二隻位には出逢ふものと豫期したかも知れない。しかし同艦に収容されていた英人捕虜の語るところでは ― この人達は非常に自由を許されて喜んでゐた ― 乗組の水兵達は、自分の艦が天下無敵であること、英國軍艦の多くは既に打沈められてゐると考へてゐること、ドイツでは、英國巡洋戰艦のフード、レナウン、レパルスの三隻は、アーク・ロイヤルと同様、戰闘に適せない程度の大損害を蒙つてゐると信じてゐたといふことである。
     十二月十二日午前七時、アヂャックス、アキレス、エキセターの三隻は、プレート河口の東方百五十浬の集合地點で相會した。ハーウード司令官は、その日の大部を、麾下艦長に獨艦と會した場合にとるべき戰術を説明するのに費やした。司令官の方針は、各艦個々に行動しながら敵と接戰し、かくして味方の砲を有効に使用するにあつた。それが終ると、司令官は自ら三隻を率ひて、これを實地に行ふ演習までも行つた。/ 十三日の日が明けると、天候快晴、視界は充分で、申分のない日和であつた。海上には南西の微風があり、海は輕いうねりをあげてゐた。英艦隊はアヂャックスを先頭に、アキレス、エキセターとこれにつゞき、單縦陣をつくりながら、十四節の速力で東北東の方向に航進した。/ 午前六時十四分、左舷正横の水平線上に煤烟を認めた。直ちにエキセターを派遣してこれを險べさしたが、二分後になつて、同艦は「ドイツの豆戰艦らしい」と報告した。敵はたうとう現れたのだ! 

it.wikipedia.org