オットー・フォン・ビスマルク (Japanese Wikipedia)

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  • ビスマルクのドイツ統一までドイツという名前の国家は存在せず、それは中欧の地方名であった。1806年まで神聖ローマ帝国という小領邦国家から成る連邦国家はあったが、この帝国の皇帝位に就いていたオーストリア帝国ハプスブルク家の権威はオーストリアにしか及んでいなかった。神聖ローマ帝国がナポレオン軍に敗れた後、小領邦国家は陪臣化世俗化ドイツ語版で39か国にまとめられた。正統主義を旨とするウィーン体制下になってもこの状態は維持された[9][10]
  • ドイツ連邦はビスマルクの創設した北ドイツ連邦やドイツ帝国と比べて統一性が圧倒的に弱く、独立国家の連合体に過ぎなかった。連邦内の最大の大国であるオーストリアが連邦議会ドイツ語版議長国という立場であったものの、覇権国の出現は阻止される構造になっており、連邦議会本会議においては大国も4票しか持たず、逆に小国であっても必ず1票はもっていた。しかも議決には三分の二という高いハードルが必要とされたので(連邦規約改正など重大問題は全会一致)、大国だけで勝手に決めることはできなかった。とはいえ決議案の事前交渉で各国に影響力を発揮した国は議長国オーストリアとそれに次ぐ大国プロイセンであった。そのためドイツ連邦は自然とこの両国共通の国益とドイツ政策を話し合う場と化していった[11]
  • 彼らは1851年から『プロイセン週報』という機関紙を発行するようになったためこう呼ばれた。指導者は駐英大使クリスティアン・カール・ヨシアス・フォン・ブンゼンドイツ語版。他の主要メンバーは、アルベルト・フォン・プルタレス伯爵やロベルト・フォン・デア・ゴルツドイツ語版伯爵、グイド・フォン・ウーゼドムドイツ語版など。当時自由主義的になっていた皇太弟ヴィルヘルムに近い立場をとっていた[113]
  • 当時のプロイセン軍制は解放戦争以来の旧態依然とした状態が続いており、改革は急務と考えられていた。だが軍部の保守派はこれに政治的意味も付加しようとしていた。すなわち兵役と予備役期間を延長することで兵の数を増やし、正規軍の新連隊を編成する一方、市民的なラントヴェーアの義務期間は縮小し、軍隊に対する王権の強化を図ろうという意図である。軍制改革は1850年代後半のオットー・テオドール・フォン・マントイフェル首相時代に軍事内局局長エドヴィン・フォン・マントイフェルが中心となって計画された。新時代内閣では自由主義的な陸相グスタフ・フォン・ボーニンドイツ語版のもと、この計画は押し込められていたが、アルブレヒト・フォン・ローンが陸相となった後の1860年に蒸し返された[143]。プロイセン自由主義者は「オルミュッツの屈辱」の教訓でプロイセンの軍拡が必要との認識を強めていたが、軍を衆議院の統制下に置きたがっており、そのため正規軍の長い兵役やラントヴェーア縮小は軍隊への王権強化を図るものとして反対していた[144]
  • 妥協案は進歩党のカール・トヴェステンドイツ語版、中央左派のフリードリヒ・シュターヴェンハーゲンドイツ語版ハインリヒ・フォン・ジイベルドイツ語版の三者によりだされた。この三者はドイツ問題解決のため軍を強化すること自体は必要不可欠と考えており、また国王を追い詰め過ぎると、国王が強硬保守内閣を発足させて無予算統治に突き進む恐れがあるとの懸念から政府と妥協する必要があると考えた。彼らの提出した妥協案は兵役を3年ではなく2年とすることと多少の軍事予算減額だけを条件とした内容だった。9月17日に陸相ローンがこの妥協案の受け入れに前向きな姿勢を示したことで衆議院は一時宥和的ムードになるも同日の閣議で国王が兵役3年を譲歩することは許さないと退けたため、ローンは9月18日に前日の妥協案受け入れの意思表明を撤回し、それに反発した衆議院は9月19日に妥協案を否決している[151]
  • たとえばハインリヒ・フォン・トライチュケは書簡の中で「私はプロイセンを愛しているが、ビスマルクごとき浅薄なユンカーが『鉄と血』でドイツを征服するなどと大言壮語しているとただ滑稽さが陳腐さを上回っているように思える」と書いている。陸相ローンは自分たちの目的に利するところのない「機知にとんだ無駄話」と評した。バーデン大公国外相フランツ・フォン・ロッゲンバッハドイツ語版はビスマルクの鉄血演説について触れた書簡の中で「この人物とこの体制に仮借ない攻撃を加えねばならない」と書いた[165]。オーストリアやバイエルンなど反プロイセン的なドイツ諸国もこの演説でプロイセンへの警戒を一層強めた[166]
  • ビスマルクはプロイセンに好意的なレヒベルクを失脚させないため、できるだけレヒベルクに歩み寄って交渉を成功させられるかのような雰囲気を作ってやるべきと訴えていたが、ルドルフ・フォン・デルブリュックドイツ語版ら経済政策専門家がいかなる譲歩にも反対し、国王もそちらの意見を受け入れたという経緯だった[238]
  • ビスマルクはヘッセン大公国首相ラインハルト・フォン・ダールヴィクドイツ語版が親仏的と見ていたので、この段階ではヘッセン大公国に攻守同盟を持ちかけることを見送った[294]

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  • 普墺戦争の講和交渉中に普仏間で作成した秘密協定の草案で、ビスマルクはナポレオン3世や駐ベルリン・フランス大使ヴァンサン・ベネデッティフランス語版にルクセンブルク併合の期待感を抱かせた。だがその後のビスマルクは曖昧な態度でフランスとの交渉を長引かせた。メキシコ出兵失敗の挽回のため早急な外交成果を求めていたナポレオン3世は、ビスマルクから積極的な反対がなかったので賛成しているものと解釈し、1867年3月からルクセンブルク大公を務めているオランダ国王ウィレム3世とルクセンブルクを買い取る交渉を開始した。だがルクセンブルクは旧ドイツ連邦加盟国であるため、ドイツ人にはドイツの一部と看做す者が多く、ビスマルクとしてもドイツ保護者としてのプロイセンの権威を貶めないためにはこの売却交渉を阻止する必要があった。北ドイツ連邦の体制が固まっていないこの時期にフランスとの戦争に突入するわけにはいかなかったので、ビスマルクは直接には反仏姿勢を打ち出さず、南ドイツ諸国との秘密攻守同盟の存在を公表したり、国民自由党党首ルドルフ・フォン・ベニヒゼンに反仏演説を行わせるなどして、ドイツ・ナショナリズムを高めることでオランダ王に売却を断念させた。そして5月7日から11日にかけて開催されたロンドン会議でルクセンブルクの永世中立国化が決定した。この結果にフランスは強く反発し、普仏関係は決定的に悪化した[317]

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