クレタ島の戦い (Japanese Wikipedia)

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  • 第二五、クリート島爭奪戰[16] 獨・伊と英とが死物狂ひになつて爭奪戰を演じたクリート島は地中海の天目山である。單にギリシヤ國王がこゝに蒙塵したからこれをイギリスの手から奪取してギリシヤ戰線のピリオドを打つといふやうな生やさしものではない。/ クリート島からアレキサンドリア港までは空路五〇〇粁ドイツ空軍がクリート島に完備した基地を設置すれば大型爆彈や、魚雷を抱いた爆撃機は鵬翼を連ねてアレキサンドリアを襲ひ、スエズを襲つて悠々歸還出來る。さうなるとアレキサンドリアのイギリス艦隊は港内に止まるを得なくなり、從つて東地中海におけるイギリスの制海權は失はれ、東洋との交通は遠く喜望峯を迂回するか、大西洋から西廻りするより外なくなるのだ。/ ギリシヤが未だ余喘を保つてゐた三月の末頃イギリス地中海艦隊はクリート島のスダ灣を根城として暴威を振つてゐた。三月廿六日、イタリー艦隊は夜陰に乗じてスダ灣に奇襲を試み碇泊地中のイギリス艦隊に砲撃を加へ一隻を撃沈したと公表してゐるが、これは廿八日夜の遭遇戰の前哨戦であつた。
     夜襲とは小癪なとイギリス艦隊も腹を立て奮然攻撃に出たものと解される。イタリーの發表では、この海戰で「中型巡洋艦三隻、驅逐艦二隻、合計五隻を失つたが、敵方の大型巡洋艦一隻の側に大型砲彈を命中せしめて撃沈し、外他の二隻にも大損害を與へた」と言つてゐる。これに對してイギリスは「廿八日の海戰においてイタリーのリツトリオ級主力艦(三五,〇〇〇トン)一隻に損害を與へ、巡洋艦二隻に致命的打撃を與へた」と公表してゐる。夜の海戰の事であるから戰果について的確な數字を擧げ得ないのは當然であらうが、彼此綜合して見るとイタリーの巡洋艦三隻は大損害を受けて基地に歸る途中沈没したものであらう。乗組員の多數が救助されたと發表してゐるのはそのためだと思はれる。イギリスは自國艦隊の損害沈没については一切口を緘してゐるし、海戰の模様に就いても何も語つてゐないが、これだけの犠牲を出したのであるから相當大掛りな海戰で、激闘が交へられた事は想像に難くない。
  • ただし1941年(昭和16年)3月25日深夜から26日未明のスダ湾襲撃では、イタリア海軍の駆逐艦2隻(クリスピィセラ)から特別攻撃艇6隻が発進して特殊作戦を実施[22]、クレタ島スダ湾在泊の英重巡洋艦ヨーク (HMS York, 90) とタンカー1隻を大破着底させた[23]
  • 英駆逐艦ジュノーを葬ったのはイタリア王立空軍の爆撃機Z.1007とされる。スツーカによる戦果とする二次資料がある[33]。生存者は僚艦(カンダハル、キングストン、ヌビアン)に救助された[34]
  • 護衛任務に就くはずだった水雷艇シリオ (Sirio) は故障で参加できず、代理の水雷艇クルタトーネ (Curtatone) は5月20日に機雷に触れて沈没した。そこでルポに役目がまわってきた。
  • ルポを指揮していたフランチェスコ・ミンベッリ (Francesco Mimbelli) 艇長は功績を評価されて勲章を授与された。彼の名前は。駆逐艦フランチェスコ・ミンベッリ (Francesco Mimbelli,D 561) に引き継がれた。
  • イタリア軍はサジタリオ艇長の勇敢な行動と輸送船団護衛成功を評価し、勲章を授与した。サジタリオ艇長の名前はコマンダンテ級哨戒艦コマンダンテ・シガーラ・フルゴーシ (Comandante Cigala Fulgosi,P 490) に引き継がれた。

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