サレカット・イスラム (Japanese Wikipedia)

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  • 日本語での「イスラム同盟」は、ほぼ定訳といってよい。例えば、専門家の間では、永積(1980年)白石(1997年)ら多くが「イスラム同盟」と表記している。一方、SI指導者の一人、ハジ・アグス・サリムの生涯と思想をテーマにした間苧谷(1970年)は「サレカット・イスラム」を使用し、また、成立期から初期にかけてのSIについての研究を複数発表した深見は、初期の論文では「イスラム同盟ことサレカット・イスラム」と断った後で「イスラム同盟」を用いたが、深見(1978年)では「サレカット・イスラム」のみを用いている。他にも「サリカット・イスラーム」「イスラーム同盟」と訳された例があるが、定着しているとは言い難い。SIの日本語訳をめぐる問題については、桃木至朗「東南アジア史 誤解と正解」(第4回全国高等学校歴史教育研究会、2006年8月2日、大阪大学)(PDF文書)を参照。本項目の項目名は、この団体名が固有名詞であることに鑑みて、現地語発音から「サレカット・イスラム」とした。

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  • 東インド社会民主主義同盟(ISDV) の党名はオランダ語表記(Indische Sociaal-Democratische Vereniging) である。東インドに共産主義運動を持ち込んだヘンドリクス・ヨセフ・フランシス・スネーフリートであったが、1917年から1920年にかけて、植民地政府はスネーフリートをはじめとするオランダ人共産主義者を次々と国外退去処分にしたため、以後の東インドにおける共産主義運動は、スネーフリートの下に学んだ「原住民」党員(スマウン、ダルソノ、アリミンなど)によって担われていくことになる。1920年5月の第7回党大会で名称を東インド共産主義同盟(Perserikatan Kommunist di India, インドネシア語表記)に改めると、この党大会での議決により、議長にスマウン、副議長にダルソノが就任した。さらに党名がインドネシア共産党 (Partai Komunis Indonesia, 略称PKI) に変更されるのはその4年後である。
  • ティルトアディスルヨ (Raden Mas Tirtoadisoerjo, 1880 - 1918) は、オランダ領東インドにおけるジャーナリズム、民族主義運動の先駆者の一人。原住民官吏養成学校 (OSVIA) を卒業後、原住民官吏とはならずに雑誌編集者になった。1903年、21歳にして花形編集者として名声を確立していた彼は『スンダ・ブリタ』という新聞を自らの手で発刊。これは原住民によって出資、運営、編集、刊行された初めての新聞となった。1907年、週刊誌『メダン・プリアイ』を発刊(1909年からは日刊紙となる)、1911年のその購読者数は2000人に達した。Van Niel, 1984, pp.89-90, Shiraishi, 1990, p.33,34.
  • ハジ・サマンフディ (Haji Samanhudi, 1868 - 1956) は、ソロ(スラカルタ)の商人。父を継いでバティック業者となり、ジャワ島各地に支店網を拡げた。Van Niel, 1984, pp.88-89
  • チョクロアミノト英語版 (Haji Umar Said Tjokroaminoto, 1882 - 1934) は、中部ジャワ・マディウン生まれ。父親が植民地政府で働く原住民地方行政官(郡長)であったことから、オランダ語で授業を受ける原住民官吏養成学校に入学、1902年に卒業。数年間官吏として過ごし、その後職を転々とする。1912年5月にSIスラバヤ支部に加入。サマンフディに代わりSI議長に就任。Van Niel, 1984, pp.92 後に初代大統領となるスカルノは、父親がチョクロアミノトの友人だった関係から、スラバヤでの学生時代、SI議長を務めていたチョクロアミノト宅に下宿した。永積、1980年、249頁早瀬・深見、1999年、303頁、を参照。スカルノがチョクロアミノトから受けた影響については、白石、1997年、10-12頁、を参照。
  • スマウン (Semaun, 1899 - 1971) は東ジャワパスルアン生まれ。父親は鉄道員で、スマウン自身も10代の頃から国営鉄道で働いた。その労働組合運動で頭角を現し、SI、ISDV (1924年にPKIと改称) に参加する。1923年に植民地政府によって東インドを追放される。1956年に帰国し、その後のPKIの活動には関与しなかった。
  • スルヨプラノト (Raden Mas Surjopranoto, 1871 - ? ) は、ジョグジャカルタのパク・アラム王家の出身(弟はキ・ハジャール・デワントロことスワルディ・スルヤニングラット)。原住民官吏養成学校 (OSVIA) を卒業。中央SI理事、SIジョグジャカルタ支部長だった1918年、製糖工場従業員組合 (PFB) を結成。Van Niel, 1984, p.154. スルヨプラノトの経歴については、Shiraishi, 1990, pp.109-111 を参照。
  • モハマド・ルム (Mohammad Roem, 1908-1983) は、中部ジャワ出身。高等法学校で学んで弁護士となった。インドネシア独立後はマシュミ党の指導者の一人として、内務大臣、外務大臣、副首相を歴任した。