契約書上は教育制度担当の「[[内閣 (日本)|]]顧問(Beirat des Kabinets)」と記されていたが、また近代的内閣制度の発足(1885年12月)以前なので、端的には[[太政官 (明治時代)|]]顧問といってよかった(鈴木(2004)43頁)。1886年2月、鍋島直大式部長官の照会に対して、田中光顕内閣書記官長は、「独人ヘルマン・テッヒョー、同カール・ルドルフ(ドイツ語版)、仏人フォンタラビー・ボワソナード、独人ヘルマン・ロエスレル。右勅任に準ずべきもの」と回答している(鈴木(2004)44頁)。