ムティー (Japanese Wikipedia)

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  • ブワイフ朝はカスピ海南西部のダイラム地方に興り[13]、長兄のイマード・アッ=ダウラ、中兄のルクン・アッ=ダウラ英語版、末弟のムイッズ・アッ=ダウラの三兄弟がそれぞれファールスジバール英語版イラクに政権を樹立して支配した[14]。それぞれの政権は独立しており、カリフから授与される公的なアミールの地位とは別に、「リアーサ」と呼ばれる一族内の私的な家長の権威(ブワイフ朝の初期にはイマード・アッ=ダウラがこれを保持していた)に基づいてそれぞれの政権が結びつく一族の諸政権の連合体であった。三兄弟の後のブワイフ家の第二世代はこのリアーサを巡って争い、978年にルクン・アッ=ダウラの息子のアドゥド・アッ=ダウラ英語版が一時的にブワイフ朝の統一に成功した[15]
  • アル=ハマザーニーは有力な候補としてラッシー朝英語版ザイド派のイマームであるアブル=ハサン・ムハンマド・ブン・ヤフヤーを挙げ、一方でイブン・アル=アスィールはイスマーイール派ファーティマ朝のカリフであるアル=ムイッズ・リッ=ディーニッラーフが有力な候補であったと記している。しかし、アブル=ハサンはすでに9年前に死去しており、ムイッズの即位はまだ先の953年のことであるため、両者の記述は事実関係を誤っている[23]。また、ミスカワイフを含む同時代の歴史家はブワイフ朝の宗教的な側面について詳しく触れておらず、イスラーム史研究家の橋爪烈は、ブワイフ朝のシーア派王朝としての側面は後世の歴史家によって強調されている傾向にあると指摘している[24]