ラングレー (CV-1) (Japanese Wikipedia)

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  • 米空母の造艦史[16] 空母の元祖は一般にイギリスと解されてゐる。これは一九一七年に英海軍が大型巡洋艦を改造して初めて航空母艦フユーリアスを建造した事實に基くものであるが、むしろ空母の着想に先鞭をつけたのは米海軍であつた。即ち、英海軍が一九一一年一一月戰艦アフリカに航空甲板を造つて試驗飛行を行つたのに先立ち、米海軍はその一年前の一九一〇年一一月に巡洋艦バーミンガムの甲板を改造して實驗を試みた結果、發艦に成功、翌一一年一月には着艦にも成功してゐる。/第一次大戰後の一九二〇年には給炭艦ジユピターを改造して、戰闘機、雷撃機、水上機等合計卅三機搭載の空母ラングレーを仕立てたが、同艦は一九三七年以來大型水上機母艦として使用されるに至り(搭載機廿四)、大東亞戰前にはアジア艦隊に所属、開戰後の一九四二年二月、ジヨンストン西方海上でわが潜水艦の餌食となつた。
     その後、ワシントン會議の結果廢棄すべき巡洋戰艦を改造して作つたのが、レキシントン、サラトガの二大空母であつた。この兩艦も大東亞開戰後レキシントンは一九四二年一月十二日ハワイ西方六〇〇浬の海上で、サラトガは珊瑚海々戰においてヨークタウンと共に帝國海軍の手で撃沈されたが、その性能は排水量三三,〇〇〇トン、電氣推進機速度卅四ノット、搭載機平時八〇、戰時一三五等最新科學の粹を集め、米の對日進攻作戰における大きなホープであつた。(中略)その後、一九三一年にはレーンジヤーが起工され、次いで一九三四年には條約量一杯の建艦を目指す第一次ヴィンソン案に基きエンタープライズヨークタウンの二隻が起工された。即ち、この兩艦に既存のサラトガ、レキシントン、ラングレー、レーンジヤを加え條約量の十三萬五千トンに近い十三萬二千〇〇トンの空母陣が形成されることとなつた。
     然るに、支那事變勃發に對するアメリカの緊急措置として、條約量二割増加を企圖した第二次ヴインソン案により、空母陣は更に二隻四萬トンを加へることとなり、ホーネットエセックスの兩艦が起工された。これより先ラングレーの代艦として一九三六年にワスプが起工され、三九年十二月に就役してゐる。/次いで一九四〇年に至り東亞情勢の緊迫に備へて空母陣の増強を主とする第三次ヴィンソン案が計畫され、ボンホーム・リチャードイントレピットキャセージの三隻が起工されることとなつた。(以下略)
  • 本来ならば2月28日にココス諸島付近でイギリス軽巡エンタープライズ (HMS Enterprise,D52) が船団に合流して護衛を引き継ぎ、フェニックスがラングレーとシーウィッチの護衛艦となる計画だった[79]
  • ラングレーに置いてきぼりにされたシーウィッチは、2月28日チラチャップに入港した[80]。だがスラバヤ沖海戦バタビア沖海戦に敗れていた連合国軍は大混乱に陥っており、せっかく輸送したP-40もジャワ島攻防戦で活用されなかった[80]