Analysis of information sources in references of the Wikipedia article "八重洲" in Japanese language version.
八代曾河岸(やよそかし)。わたくらより馬場さきの御濠はたを云。むかしは此所に町屋ありし也。慶長の頃ヤンヨウス、ハチクハンなとといふ異国人きたりしに此辺にてヤンヨウスに町屋敷を下されてよりの名といふ。ハチクワンは八官町にて屋敷を下されける也。又冶容子(ヤヨウス)河岸とも書よし、八代洲とも書。 — 『再校江戸砂子名蹟誌』巻一(須原屋伊八板)、「大下馬より南方 并御堀端東南西北」。
『江戸砂子温故名蹟誌』(国立国会図書館デジタルコレクション)
耶揚子河岸。彌余子、八代洲、八代曾、八重洲とも書せり。皆仮借の文字なり。【紫一本】に云、昔ヤヨウスと云異国人に、此所にて屋敷を賜りしよりの名なりと。案に『慶長日記』に十九年甲寅九月朔日、阿蘭陀人耶揚子虎子二匹を献ずるよしみへたり。『駿府政事録』同じ。此人なるべし。 — 『御府内備考』巻之七・御曲輪内之五、「屋敷地名并里俗小名」。
『大日本地誌大系』第1巻(雄山閣、1929年)p.134(国立国会図書館デジタルコレクション)