帝銀事件 (Japanese Wikipedia)

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  • 生き残りの1人M(結婚後はT姓。出典原文では実名)は「犯人が私たちに薬を飲ませる前、約10分ぐらいY支店長代理(出典原文では実名)は、犯人と話をしていました」「とにかくこんな調子で10分近くYさんは話をしているんです。決して一方的に、無条件に犯人に命令されて薬を飲んだのではなくて、一応疑って色々聞いて、そして納得して飲むことになったというのが、真相なんです」と述べている。出典:「なぜ行員たちは乾杯するように毒を飲んでしまったのか――生存者が語った"帝銀事件"の悪夢「平沢は犯人と思えません」
  • 文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「帝銀事件の悪夢」に載せるM(結婚後は竹内と改姓)の談話。2021年3月26日閲覧
  • 秦郁彦によると、成智英雄がいうS中佐ことS・S(原書では実名)という姓名の人物は日本陸軍の軍医将校名簿には存在しない。該当しそうな似た名前の人物は、軍医大佐のS・K(精神科。原書では実名。1902年生まれ)と、軍医中佐のS・N(皮膚科医。原書では実名。1898年生まれ)の2人だけで、2人とも経歴は731部隊とは無関係だった。成智とその賛同者は明らかにS・Nのほうを念頭に置いていたと考えられるため、秦は1987年秋、F県(原書では実名表記)にあるS・Nの本籍地まで行って写真を入手し、帝銀事件の生き残りの1人M(旧姓。結婚後はT姓。原書では実名表記)に見てもらったが「犯人ではない」という返事を得た。出典:秦郁彦『昭和史の謎を追う』下巻(文藝春秋社、1993年)pp.191-194。秦郁彦より数ヶ月前、小池新もSの「親族に会い、写真も見せてもらったが、七三一部隊とは無関係で、帝銀事件犯人の似顔絵とは似ても似つかなかった。最終的に私は、Sが実際にいたとしても、それは実在の人物の名前と経歴を偽った別人と推理した」。出典:小池新「死刑確定後30年たってはじまった殺人事件再取材…担当警部が残した「メモ」から見えてきたもの――GHQ占領下の日本を揺るがした大量毒殺「帝銀事件」#3」2021/01/17(2021年3月24日閲覧)。なお、平沢の再審弁護団(遠藤誠ら)はS中佐真犯人説を理由に平沢の第17次再審請求を行ったが、東京高等裁判所は「東京高等裁判所 昭和56年(お)1号 決定」の中で「成智英雄は右S中佐(原文では実名)について直接捜査したことすらなく、同中佐と帝銀事件との具体的なつながりは一切明らかになっていない」と指摘し、棄却した。

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  • 秦郁彦によると、成智英雄がいうS中佐ことS・S(原書では実名)という姓名の人物は日本陸軍の軍医将校名簿には存在しない。該当しそうな似た名前の人物は、軍医大佐のS・K(精神科。原書では実名。1902年生まれ)と、軍医中佐のS・N(皮膚科医。原書では実名。1898年生まれ)の2人だけで、2人とも経歴は731部隊とは無関係だった。成智とその賛同者は明らかにS・Nのほうを念頭に置いていたと考えられるため、秦は1987年秋、F県(原書では実名表記)にあるS・Nの本籍地まで行って写真を入手し、帝銀事件の生き残りの1人M(旧姓。結婚後はT姓。原書では実名表記)に見てもらったが「犯人ではない」という返事を得た。出典:秦郁彦『昭和史の謎を追う』下巻(文藝春秋社、1993年)pp.191-194。秦郁彦より数ヶ月前、小池新もSの「親族に会い、写真も見せてもらったが、七三一部隊とは無関係で、帝銀事件犯人の似顔絵とは似ても似つかなかった。最終的に私は、Sが実際にいたとしても、それは実在の人物の名前と経歴を偽った別人と推理した」。出典:小池新「死刑確定後30年たってはじまった殺人事件再取材…担当警部が残した「メモ」から見えてきたもの――GHQ占領下の日本を揺るがした大量毒殺「帝銀事件」#3」2021/01/17(2021年3月24日閲覧)。なお、平沢の再審弁護団(遠藤誠ら)はS中佐真犯人説を理由に平沢の第17次再審請求を行ったが、東京高等裁判所は「東京高等裁判所 昭和56年(お)1号 決定」の中で「成智英雄は右S中佐(原文では実名)について直接捜査したことすらなく、同中佐と帝銀事件との具体的なつながりは一切明らかになっていない」と指摘し、棄却した。

doi.org

  • 琺瑯質(ほうろうしつ)は「エナメル質」のこと。後藤仁敏「琺瑯質かエナメル質か、間葉性エナメル質かエナメロイドか」『鶴見大学紀要. 第3部保育・歯科衛生編』第51号、鶴見大学、2014年3月、71-86頁、doi:10.24791/00000109ISSN 0389-8024NAID 120006549053 によると、1950年以前、つまり帝銀事件が起きたころの日本語では「琺瑯質」が一般的であった。「エナメル質」という言葉が広まったのは帝銀事件のあとの1950年代からで、特に藤田恒太郎著『歯の組織学』(1957年<昭和32年>刊)の影響が大きかった。ただし、東京歯科大学だけは「琺瑯質」を1994年(平成6年)まで使い続けた。ネットなどで流布している俗説「琺瑯質という歯科用語は、現在の東京歯科大学とその前身の東京歯科医専の出身者しか使わない特殊な用語で、これは真犯人が東京歯科医専の系統の歯科医である証拠」は誤り。

gasho.net

  • 平沢武彦「小樽で平沢貞通氏の春画発見!」 https://www.gasho.net/teigin-case/jiken/shunga/shunga.htm 2021年6月30日閲覧
  • 松本清張『小説帝銀事件』では、春画を描いたことがわかれば平沢の画家としての名声は地に落ちることになるからあえて否定したのではないかと、主人公が推測する場面がある。ただ、もしそうなら、「殺人犯の家族」という汚名に苦しむ家族の懇願をはねつけてまでなぜ平沢は「画家の名声」にこだわったのかを合理的に説明する必要がでてくる(中村正明『科学捜査論文「帝銀事件」―法医学、精神分析学、脳科学、化学からの推理』)。実際、大量殺人犯の汚名は春画どころではなく平沢のそれまでの画業は抹殺された(平沢貞通#エピソード)。なお2000年(平成12年)には北海道小樽市と神奈川県横浜市でそれぞれ平沢のものと鑑定[誰?]された春画が発見されている(詳細は「救う会」HPの「小樽で平沢貞通氏の春画発見!」を参照)。ただし、これらの春画に平沢の署名はなく、いつ誰が誰からいくらで買ったのか、も立証できていない。そもそもこのていどの春画が、戦争直後の、裁判所の判事すら餓死するほどの経済難の時代に高い値段で売れたとは考えにくい、とする意見もある(中村正明『科学捜査論文「帝銀事件」―法医学、精神分析学、脳科学、化学からの推理』)。
  • 帝銀事件ホームページ」の中の「平沢貞通氏を救う会趣意書 1962年6月28日 森川哲郎事務局長記」。ちなみに北芝健『ニッポン犯罪狂時代』 (扶桑社、2009年) によると、「救う会」のある有名な弁護士(原文では実名)はプライベートな場で「(平沢貞通が)白でも黒でもかまわんよ」「国家という巨大でまがまがしい存在に対抗するには、この平沢の事件は非常にいいネタなんだ」云々と述べたという。

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  • 平沢の次女は「『平沢貞通を救う会』(自分の実父なので「氏」を抜く)が父を救うなどと言っているため、父がいつまでも本当のことを言わない、そのため家族はいつまでも苦しまねばならない」と不満を述べ、また「救う会」が帝銀偽証事件を起こした時も「自分は黒を白と言ってまで父を助けてもらおうとは思わない」と語った(佐伯省『帝銀事件はこうして終わった―謀略・帝銀事件』、p.50)。ジャーナリストのウイリアム・トリプレットは「『救う会』が平沢の娘たちから、沈黙ではなく支持を取りつけることができていたら、『救う会』による平沢釈放の訴えはもっと重みを増していたはずだ」と残念がり「彼女たちが実父を支援しようとしなかったのは、西洋人の目にはどう見ても疑わしい行動に映るものだった」と述べる(ウイリアム・トリプレット(著)、西岡公 (訳)『帝銀事件の真実―平沢は真犯人か?』1987年、p.220)。ただし「救う会」の活動は別として、平沢の家族は「救う会」代表の森川哲郎や森川武彦(平沢武彦)とは良好な関係を保った。1996年ごろに撮影された、平沢貞通の長女が森川哲郎に親しげに語りかけるプライベートビデオが残っている(「コラム 帝銀事件とは何だったのか-50 Vol.50 原渕 勝仁さん」)。また、諸般の事情で縁を切ったとはいえ、平沢を思う家族の気持ちには変わりがなかった。平沢の三女は米国人と結婚し米国に渡ったが、1980年代前半、米国から獄中に父に手紙を寄せ、自分は父のことを思っており元気でいてほしい、自分はアメリカでの生活を満喫している、と伝えてきた。返信用のアドレスは記されていなかった。(『帝銀事件の真実』p.221)
  • 帝銀事件・平沢元死刑囚の養子?死亡 東京の自宅で 朝日新聞 2013年10月2日。また「帝銀事件とは何だったのか-35 Vol.35 原渕 勝仁さん」に「再審請求人の平沢武彦氏は2013年10月1日、一人暮らしの自宅で孤独死しているのを発見されている。発見したのは、このわたくしである」云々とある(2021年3月27日閲覧)。
  • コラム 帝銀事件とは何だったのか-13 Vol.13 原渕 勝仁さん」 2021年7月4日閲覧
  • 平沢クロ説に立つ中村正明によると、平沢貞通はコルサコフ病特有の記憶障害のうえに双極性障害離人症も加わり解離性同一性障害(旧称「多重人格障害」)が生じていた(中村正明『科学捜査論文「帝銀事件」―法医学、精神分析学、脳科学、化学からの推理』2008年刊)。平沢がサイコパス(精神病質者)だったなら、毒殺の時も落ち着き払いピペットを持つ手が緊張で震えることもなかったこと、犯行後も罪悪感をもたず口が達者で魅力的な人物に見えたこと、逮捕した刑事や取り調べを行った検事が見た平沢は不誠実な嘘つきだったのに拘置所の看守や支援者が見た平沢は生き仏のような人格者だったという二重人格性(弁護士の遠藤誠は「平沢氏普賢菩薩説」(平沢貞通#エピソード)を主張した)も合理的に説明できる。平沢冤罪説に立ち再審弁護団とも深くかかわった原渕勝仁は、平沢がコルサコフ症候群だったため「平沢の自白は証拠にならないということなのだが、逆に考えてみると、平沢には自分が犯行に及んだことも記憶から消失していた。だから自分はやってないと本気で死ぬまで〝嘘〟を主張し続けたともうがった見方ができなくもない。弁護団会議で、そのような平沢に不利になるような話をすることはタブーなのだが(下略)」と「帝銀事件とは何だったのか-28」の中で述べている。ただし原渕の叙述の真意は(残念ながら)「心理学的アプローチは事件を解決する決定打にはならない」という点にある。

handle.net

hdl.handle.net

j-ba.or.jp

meiji.ac.jp

  • オンライン講演会「帝銀事件と日本の秘密戦:捜査過程で判明した日本軍の実態」(明治大学平和教育登戸研究所資料館、2021年8月7日)での「帝銀事件再審弁護団より再審請求進捗状況報告(渡邉良平弁護士)」による。
  • 2019年1月「企画展「帝銀事件と登戸研究所」関連イベント 主催:明治大学平和教育登戸研究所資料館 特別プログラム 第二回講演会「帝銀事件第二十次再審請求の現状」」https://www.meiji.ac.jp/noborito/event/6t5h7p00000gn1xj-att/6t5h7p000032n36y.pdf p.25より引用。 2021年6月16日閲覧

ndl.go.jp

kokkai.ndl.go.jp

  • 「第2回国会 衆議院 本会議 第13号 昭和23年2月2日」006 鈴木義男 https://kokkai.ndl.go.jp/txt/100205254X01319480202/6
  • 「第2回国会 参議院 司法委員会 閉会後第1号 昭和23年9月13日」「003 田中榮一」 https://kokkai.ndl.go.jp/txt/100214390X00119480913/3
  • 正木亮は法廷弁論の中で、平沢を「実に嘘つきであります」と批判し、平沢が疑惑の預金の出所について「この点さえ真実を述べれば事件は寸刻を出でずして片付くのであります」「本当に本件に関係のない金なら弁護人にだけはそっと知らして呉れたらよさそうなものである」と不満を述べつつ、「もしも平沢貞通が大正十四年に狂犬病の予防注射を打つことがなかったならば不幸なるコルサコフ病に罹ることもなく、また今日のような嘘つきにもならなかったのであるとされております」「(平沢に)嘘つきだという悪名をかぶせはしますけれども、証拠のはっきりしないものを死刑にすることはよくないということに気がつくようになりました」と弁護した。出典: 正木亮『死刑 消えゆく最後の野蛮』(日本評論社、昭和39年)p.111-p.125。なお正木は、平沢の死刑確定後の1955年(昭和30年)7月14日、国会で「私は心証から申しますと、平沢貞通が真犯人じゃないかと思っておるのであります」と述べた。出典: 「第22回国会 参議院 法務委員会 第15号 昭和30年7月14日」「021 正木亮」 https://kokkai.ndl.go.jp/txt/102215206X01519550714/21
  • https://kokkai.ndl.go.jp/txt/100214390X00119480913/3
  • 「第2回国会 参議院 司法委員会 閉会後第1号 昭和23年9月13日」「022 堀崎繁喜」 https://kokkai.ndl.go.jp/txt/100214390X00119480913/22
  • 「第22回国会 参議院 法務委員会 第2号 昭和30年3月31日」「084 江里口清雄」 https://kokkai.ndl.go.jp/txt/102215206X00219550331/84
  • 平沢が亡くなった4日後、法務大臣の遠藤要は国会での答弁で、歴代の法務大臣が平沢の死刑を執行しなかった理由は「再審請求のさなかに執行したということになると世論として一体どうなるか、あれは口をふさぐために早くやってしまったんだというような疑いも出てくる」(第108回国会 参議院 法務委員会 第2号 昭和62年5月14日 「089 遠藤要」)ためであったと明かしたうえで、「平沢は間違いなく真犯人であるということを私は改めて強調申し上げておきたいと思いますので、ぜひその点は皆さん方にもお広めをひとつちょうだいいたしたいと思います」(同前)と述べた。
  • 「第41回国会 衆議院 法務委員会再審制度調査小委員会 第1号 昭和37年10月10日」の「008 磯部常治」 https://kokkai.ndl.go.jp/txt/104105223X00119621010/8 に「○磯部参考人 申し上げます。私の調査したところによりますと、当時の弁護人、なくなられた山田義夫君でありますが、当時の弁護人らはエリーをぜひとも証人にということで申請したということを聞いております。が、裁判所は遂にこれを許さなかった。その許さなかったということは那辺にあるか、私は想像で申せとおっしゃれば申し上げますけれども、事実はよく知りません。同時にエリーは平沢の娘と一緒にアメリカへ行ったということでありますので、何とかこの点をと思って私も弁護人の立場からずいぶんと努力したのでありますが、遺憾ながらエリー氏に会うことができず、かつ最近の調査によれば、エリー氏は飛行機事故のために死亡したということが確実に入手されて、今はいかんともすることができ得ません。私はその程度しか今のこのエリーのアリバイ関係については知っておりませんということをお答えしておきます。」とある。
  • 国会議事録「法務委員会 第8号 昭和37年12月7日 018 志賀義雄」 https://kokkai.ndl.go.jp/txt/104105206X00819621207/18 2021年7月25日閲覧
  • 平沢の主張は国会の会議録「第46回国会 衆議院 法務委員会 第41号 昭和39年6月5日」026 赤松勇 https://kokkai.ndl.go.jp/txt/104605206X04119640605/26 でも読むことができる。

iss.ndl.go.jp

  • 福島章・中田修・小木貞孝編『日本の精神鑑定 : 重要事件25の鑑定書と解説1936-1994』(増補新版、みすず書房、2018年)。同書p.267-p.332の内村祐之・吉益脩夫「帝銀事件」は、内村祐之、吉益脩夫「脱髄脳炎後の空想虚言症とその刑事責任能力について」『精神神経学雑誌』第59巻第5号、日本精神神経学会、1957年5月、ISSN 00332658NAID 40017966715  の主要部分を転載したものである。

nii.ac.jp

ci.nii.ac.jp

  • 琺瑯質(ほうろうしつ)は「エナメル質」のこと。後藤仁敏「琺瑯質かエナメル質か、間葉性エナメル質かエナメロイドか」『鶴見大学紀要. 第3部保育・歯科衛生編』第51号、鶴見大学、2014年3月、71-86頁、doi:10.24791/00000109ISSN 0389-8024NAID 120006549053 によると、1950年以前、つまり帝銀事件が起きたころの日本語では「琺瑯質」が一般的であった。「エナメル質」という言葉が広まったのは帝銀事件のあとの1950年代からで、特に藤田恒太郎著『歯の組織学』(1957年<昭和32年>刊)の影響が大きかった。ただし、東京歯科大学だけは「琺瑯質」を1994年(平成6年)まで使い続けた。ネットなどで流布している俗説「琺瑯質という歯科用語は、現在の東京歯科大学とその前身の東京歯科医専の出身者しか使わない特殊な用語で、これは真犯人が東京歯科医専の系統の歯科医である証拠」は誤り。
  • 福島章・中田修・小木貞孝編『日本の精神鑑定 : 重要事件25の鑑定書と解説1936-1994』(増補新版、みすず書房、2018年)。同書p.267-p.332の内村祐之・吉益脩夫「帝銀事件」は、内村祐之、吉益脩夫「脱髄脳炎後の空想虚言症とその刑事責任能力について」『精神神経学雑誌』第59巻第5号、日本精神神経学会、1957年5月、ISSN 00332658NAID 40017966715  の主要部分を転載したものである。
  • 塚本百合子「『甲斐捜査手記』より明らかになった旧日本陸軍の毒物研究とネットワークおよびGHQと交わされた"ギブ・アンド・テイク"」『明治大学平和教育登戸研究所資料館館報』第5号、明治大学平和教育登戸研究所資料館、2019年9月、1-26頁、ISSN 2423-9151NAID 120006768527  p.11 より

smcb.jp

  • 古畑種基の四男で東大名誉教授の古畑和孝は、帝銀事件発生当日を回想し、父・種基が夜行列車で神戸に向かう仕度を家でしていると「突然、東京地検から緊急要請の電話での懇請があった。父は事情を説明するものの、地検は引き下がらない。『先生のお宅の近くの帝銀椎名町支店で、事件が発生した。行員が倒れている。是非とも検視していただきたい。』と矢の催促だ。事の重大性をある程度把握した父は『正式の鑑定は出来ないが、それではとにかく現場に行こう』と承諾した。(中略)何人もの行員がすでに絶命していた。また複数の重症の行員もいた。父の取り敢えずの検視に基づく一応の鑑定では『おそらく青酸カリ、ないしは青酸ナトリウムなど青酸化合物によるものだ』というものだった」出典:『わが道』(11)中学~高校時代に出くわした極めて大きな社会的事件①帝銀事件 (1447)2020年12月13日(日)23:48

time.com

  • Noose or Pneumonia? Time(英語) 目撃者の証言との不一致、アリバイの存在、自白を強要された可能性があることなど、当時分かっていたことが書かれている。

tv-asahi.co.jp

  • 土地ではなく土地である。鑑識捜査の「鑑」を含む「土地鑑」は司法用語で、その土地をよく知っていて周辺の地理に詳しいという意味である。これに対して、あてずっぽうでなんとなくわかるという意味の「勘」を含む「土地勘」は、はじめてその土地に行ってもどこに何がありそうかなんとなくわかる、と全く違う意味になってしまう。帝銀事件関係の一次資料の表記は、司法用語の「土地鑑」(鑑識捜査の鑑)で統一されている。一方、マスコミやネット記事ではこれを誤って「土地勘」(勘が鋭い、の勘)と書きかえてしまうことが多いので、要注意である。参考記事 日本語研究室 - 言葉の雑学その2 ~土地カンで捜査のプロがカンカン!?~ 閲覧日2022年5月7日

web.archive.org

  • 帝銀事件の再審請求終了 養子死亡で東京高裁 弁護団は異議 産経新聞 2013年12月3日閲覧
  • 「東京高等裁判所 昭和31年(お)13号 決定」によると、獄中の平沢貞通は弁護士とともに「いわゆる帝銀事件の真犯人は平沢でなくH(原文では氏名を実名表記)であることが新に発見されたから、平沢に対しては無罪の言渡を為すべき理由があり、旧刑事訴訟法第四百八十五条第六号により再審請求をする」と主張したが、却下された。その後も平沢らは「未遂事件の犯人の目撃者のうち数名はHが似ていると証言」「Hの指紋は流れ指紋だが、帝銀椎名町支店に残された犯人の指紋も流れ指紋」「大村得三の筆跡鑑定によれば事件翌日に犯人が換金した小切手の裏書の筆跡はHと同一の可能性がある」「真犯人は自家用車で犯行直後の警戒網を巧みにくぐり抜けたはずだが、Hは自家用自動車を持っていた」などの理由を挙げて真犯人はHだと主張し続けたが、棄却された(「東京高等裁判所 昭和37年(お)10号 決定」)
  • 東京高等裁判所昭和31年(お)13号決定

worldcat.org

search.worldcat.org

  • 琺瑯質(ほうろうしつ)は「エナメル質」のこと。後藤仁敏「琺瑯質かエナメル質か、間葉性エナメル質かエナメロイドか」『鶴見大学紀要. 第3部保育・歯科衛生編』第51号、鶴見大学、2014年3月、71-86頁、doi:10.24791/00000109ISSN 0389-8024NAID 120006549053 によると、1950年以前、つまり帝銀事件が起きたころの日本語では「琺瑯質」が一般的であった。「エナメル質」という言葉が広まったのは帝銀事件のあとの1950年代からで、特に藤田恒太郎著『歯の組織学』(1957年<昭和32年>刊)の影響が大きかった。ただし、東京歯科大学だけは「琺瑯質」を1994年(平成6年)まで使い続けた。ネットなどで流布している俗説「琺瑯質という歯科用語は、現在の東京歯科大学とその前身の東京歯科医専の出身者しか使わない特殊な用語で、これは真犯人が東京歯科医専の系統の歯科医である証拠」は誤り。
  • 福島章・中田修・小木貞孝編『日本の精神鑑定 : 重要事件25の鑑定書と解説1936-1994』(増補新版、みすず書房、2018年)。同書p.267-p.332の内村祐之・吉益脩夫「帝銀事件」は、内村祐之、吉益脩夫「脱髄脳炎後の空想虚言症とその刑事責任能力について」『精神神経学雑誌』第59巻第5号、日本精神神経学会、1957年5月、ISSN 00332658NAID 40017966715  の主要部分を転載したものである。
  • 塚本百合子「『甲斐捜査手記』より明らかになった旧日本陸軍の毒物研究とネットワークおよびGHQと交わされた"ギブ・アンド・テイク"」『明治大学平和教育登戸研究所資料館館報』第5号、明治大学平和教育登戸研究所資料館、2019年9月、1-26頁、ISSN 2423-9151NAID 120006768527  p.11 より