もっとも初期の史料のひとつはアレクサンドリアのアタナシオスで373年の著作(杉村貞臣『ヘラクレイオス王朝時代の研究』p109)、ラテン語の最古の用例は『ローマ帝政の歴史』16巻11-7(日本語版第一巻p169註7) Romaniae であるが、転写の際に Romanae rei の表記が変わったとする研究者もいる(同書注)。なお、ロマニアは中世西欧では小アジアの旧ビザンツ領だと認識していたようで、第一回十字軍を提唱した1095年クレルモン教会会議におけるウルバヌス2世の演説では、「トルコ人やペルシア人がロマニア(Romaniae)の土地の境界にまで押し寄せた」との文言がある(Fulcheri Carnotensis著『Historia Hierosolymitana』1-3-3,p133(フーシェ・ド・シャルトル『エルサレムへの巡礼者の事績』)なお、丑田弘忍訳「エルサレムへの巡礼者の事績」(序+第一巻)では当該部分は「トルコ人とアラブ人が地中海にまで、即ちルームの境界の」(p7)と訳されている)が、その他の箇所では、「ニコメディアに至るまでルーム全土を手中に収めていた」(p15、『Historia Hierosolymitana』1-9-5,p180)、「ニケアを支配していたルーム(Romaniam)のスレイマン」(p17)(『Historia Hierosolymitana』1-11-4,p192)と登場するなど、小アジア側の旧ビザンツ領を示している。なお、丑田訳p14では「ギリシアのその他の市」とあり、バルカン半島を意味するように受け取れるが、原文(1-8-8,p174-5)ではバルカン半島の諸都市の名前が逐一挙げられていて、「ギリシア」という用語は登場していないなど注意を要する
britannica.com
“ʿAbd al-Malik”. www.britannica.com. 20 September 2012閲覧。
もっとも初期の史料のひとつはアレクサンドリアのアタナシオスで373年の著作(杉村貞臣『ヘラクレイオス王朝時代の研究』p109)、ラテン語の最古の用例は『ローマ帝政の歴史』16巻11-7(日本語版第一巻p169註7) Romaniae であるが、転写の際に Romanae rei の表記が変わったとする研究者もいる(同書注)。なお、ロマニアは中世西欧では小アジアの旧ビザンツ領だと認識していたようで、第一回十字軍を提唱した1095年クレルモン教会会議におけるウルバヌス2世の演説では、「トルコ人やペルシア人がロマニア(Romaniae)の土地の境界にまで押し寄せた」との文言がある(Fulcheri Carnotensis著『Historia Hierosolymitana』1-3-3,p133(フーシェ・ド・シャルトル『エルサレムへの巡礼者の事績』)なお、丑田弘忍訳「エルサレムへの巡礼者の事績」(序+第一巻)では当該部分は「トルコ人とアラブ人が地中海にまで、即ちルームの境界の」(p7)と訳されている)が、その他の箇所では、「ニコメディアに至るまでルーム全土を手中に収めていた」(p15、『Historia Hierosolymitana』1-9-5,p180)、「ニケアを支配していたルーム(Romaniam)のスレイマン」(p17)(『Historia Hierosolymitana』1-11-4,p192)と登場するなど、小アジア側の旧ビザンツ領を示している。なお、丑田訳p14では「ギリシアのその他の市」とあり、バルカン半島を意味するように受け取れるが、原文(1-8-8,p174-5)ではバルカン半島の諸都市の名前が逐一挙げられていて、「ギリシア」という用語は登場していないなど注意を要する
井上浩一は「ユスティニアノス一世は皇帝Imperator,Augstusとだけ名乗った。7世紀のヘラクレイオス(在位610年‐641年)や8世紀のレオーン3世(在位717年 - 741年)も同様である。彼らはわざわざ「ローマ皇帝」と名乗っていないし、名乗る必要もなかったのである」(井上2009p20)と記載している。これはユスティニアヌス以前も同様で、例えば当時の皇帝からペルシア王への書簡がアンミアヌス・マルケリヌス『ローマ帝政の歴史Ⅰ』p216に引用されているが、皇帝は「陸海の勝者コンスタンティウス、永劫のアウグストゥス」と名乗っているだけで、「ローマ皇帝」とは名乗っていない。550年頃著されたプロコピオス『秘史』(以下、引用箇所は京都大学学術出版会和田廣訳)でも、無数に登場する「皇帝」は、わずかな例外以外「皇帝αὐτοκράτωρ/βασιλεὺς」単独で用いられている。「ローマ皇帝」そのものは、四つの用語で登場している。即ち、Ῥωμαίων ἄρχοντος,(ローマ人のアルコン、13-23(p107))、Ἰουστινιανὸς Ῥωμαίων αὐτοκράτωρ(ローマ皇帝ユスティニアヌス、26-30(p198))、Ῥωμαίων ἀρχὴν(23-1,p169)、Ῥωμαίων αὐτοκράτορες(30-2,p218)である(Ῥωμαίων ἀρχὴνは18-20(p139)では「ローマ帝国の支配者」と訳されていて、事実上「ローマ皇帝」を意味する箇所となっている。これを加えれば五か所)。Ῥωμαίων ἀρχὴνはこの箇所以外は総て「ローマ帝国」を表す用語として用いられている。なお、『秘史』(2015)では Ῥωμαίοις6-11(p51)や、βασιλέα24-27(p182)とだけあるところを、日本語訳では「ローマ皇帝」と訳しているので注意が必要である(Ῥωμαίοις は通常は「ローマ人」を意味する用語)。このように、『秘史』に登場する「ローマ皇帝」という用語は登場回数も少ない上に表記にゆれがあり、称号として定着していた用語とは言い難いが、これはタキトゥスからアンミアヌス・マルケリヌスに至るまでの古代ローマの文学作品と共通している。なお、ディオクレティアヌスについても、26-41(p202)でΔιοκλητιανὸς Ῥωμαίων と登場しており、直訳すれば「ローマ人のディオクレティアヌス」となってしまうが、ここでのῬωμαίωνは「ローマ皇帝」の意味で用いられている。『秘史』では都市ローマは4回言及されているが、いずれも、Ῥώμηςとなっていて、「ローマ帝国」とは異なった用語となっている)。Ῥωμαίων ἄρχοντοςは、principem Romanumの訳語である可能性がある(ケンタッキオー大学作成の文書ALL THAT GLITTERS IS NOT GOLD: THEORIES OF NOBLESSE OBLIGEIN CAROLINGIAN FRANCIA のp32に、"Society of Biblical Literature Greek New Testament"というギリシア語聖書におけるἄρχωνがヒエロニムスのウルガタ聖書のprincepsに対応しているとの記載がある。これが正しいとすれば、Ῥωμαίων ἄρχοντοςは「ローマの元首」ということになる。