百年戦争 (Japanese Wikipedia)

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  • 堀越孝一「「パリの住人の日記」校注(2)」『人文』第2号、学習院大学、2003年、117頁、NAID 110001023258 

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  • カスティーリャ王ペドロ1世がアラゴン王ペドロ4世と戦った両ペドロ戦争英語版で、イングランドとともにフランス、アラゴンと戦った。
  • 城戸毅は1855年発行のアンリ・マルタン英語版『フランス史』により時代概念が生み出され、その後6年のうちに「百年戦争」という言葉が生み出されたとみている[8]
  • カルロス2世は、ルイ10世の娘ジャンヌ(ナバラ女王ファナ2世)を母に持ち、フランス宮廷で育てられた。カルロス2世はアングレーム伯領の相続権を有していたが、伯領が1350年にジャン2世の寵臣シャルル・ド・ラ・セルダに与えられたことで不満が高まったため、ジャン2世は娘ジャンヌを嫁がせた。しかしカルロス2世は1354年にシャルル・ド・ラ・セルダを暗殺。カルロス2世がイングランドと連携する姿勢をみせると、ジャン2世はノルマンディーの半分をカルロス2世に与えるマント条約英語版を結んだ。しかしフランスが条約を履行せず、カルロス2世はイングランドと同盟を結ぶ一方でジャン2世との和解を試みていた[109]
  • ジョン・オブ・ゴーントはガリシアを占領したものの王位を奪うには至らず、1388年にバイヨンヌ条約英語版を結び、カスティーリャは百年戦争から離脱する。ジョン・オブ・ゴーントは10万ポンドの賠償金を得る代わりにカスティーリャ王位請求権を放棄し、イングランドへ帰還した[201][202][203]

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  • ニコラ・オッフェンシュタットフランス語版は、戦闘よりも外交交渉を行っていた時代の方が長かったことから「百年<戦争>」ではなく「百年<交渉>」の時代と名付けている[11]
  • 例えば、城戸毅は4期(1337年-1360年:開戦からプレティニー条約まで、1360年-1413年:ヘンリー4世死去まで、1413年-1435年:アラスの和約まで、1435年-1453年:終戦まで)、エドゥアール・ペロワフランス語版は6期(1340年-1364年:フランスの災厄期、1364年-1380年:シャルル5世の治世、1380年-1400年:和解期、1400年-1420年:ランカスター家による占領期、1418年-1429年:フランスの分割期、1429年-1444年:フランスの回復期)に分けている[12]
  • Anne Curryは、エドワード3世の王位請求は戦争勃発に至った結果であり、戦争の原因ではないとしている[13]。堀越孝一は、1340年のエドワード3世のフランス王即位宣言が開戦時期として適切であろうとし、また、1339年のフランドルや北フランスでの軍事衝突を開戦時期とする説を紹介している[14]。そのほか、ジャン=フィリップ・ジュネフランス語版は、百年戦争は事実上ガスコーニュ戦争フランス語版(1294年-1303年)から始まったとしている[15]
  • エキュ金貨はルイ9世により創設され、主に外国との交易および高額支払いに使用された。その補助貨幣がリーブル・トゥルノワである[120]。なお、フランは、1360年にジャン2世の釈放を記念し発行した金貨フラン・ア・シュヴァルフランス語版に由来し、フラン・ア・シュヴァルは1リーブル・トゥルノワとされた[121]