護雅夫 (Japanese Wikipedia)

Analysis of information sources in references of the Wikipedia article "護雅夫" in Japanese language version.

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archives.go.jp

jacar.archives.go.jp

  • 外務省報第二百八十六号(昭和八年十一月一日)/出張及留学 JACAR:B13091697400

chiba-u.jp

opac.ll.chiba-u.jp

chuko.co.jp

doi.org

  • 熊谷哲也「〔資料〕「日本イスラム協会の沿革(稿)」」『イスラム世界』第44巻、日本イスラム協会、1994年、132-142頁、doi:10.57470/theworldofislam.44.0_132 
  • 「知の先達たちに聞く(12)―鈴木董先生をお迎えして―」『イスラーム世界研究』第11巻、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科附属イスラーム地域研究センター、2018年3月、175頁、doi:10.14989/230459。「昭和45年に法学部の大学院の修士課程に入って、文学部で開講されていた護先生のトルコ語の授業には出していただくことにしたのです」 

gulcincandarlioglu.com

hacettepe.edu.tr

kaynakca.hacettepe.edu.tr

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  • 「安部健夫博士略歴・著作目碌」『東洋史研究』第18巻第3号、東洋史研究会、1959年、455-457頁、hdl:2433/148154 
  • p.640:教授陣の業績、p.670:発掘調査 / 東京大学百年史編集委員会「第二編 文学部」『東京大学百年史 部局史1』東京大学、1987年、409-870頁。hdl:2261/00078984  東京大学学術機関リポジトリ

inalkitabevi.com

iskultur.com.tr

  • (トルコ語)Pulat Otkan 業績”. Türkiye İş Bankası Kültür Yayınları(出版社). 2023年2月12日閲覧。

japan-acad.go.jp

jodo-shinshu.info

jpf.go.jp

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ndl.go.jp

iss.ndl.go.jp

nihon-u.ac.jp

dept.chs.nihon-u.ac.jp

nii.ac.jp

ci.nii.ac.jp

  • 卒業論文のテーマは探馬赤和田清の勧めを受け論文の一部を2編に分け手渡したものが、兵学校時代に公刊された[10]:「元初に於ける「探馬赤部族」について」『北亞細亞學報』3輯、1944年。NCID BA77783414/「探馬赤部族考序說」『史學雜誌』55編1號、1944年。論文原文は敗戦後の混乱で焼失[11][12]
  • (1903年12月-1959年2月 / 55歳没)羽田亨の下で代史を専攻。1957年、「西ウィグル国史の研究」で京都大学より文学博士 学位取得(NAID 500000491466)[18][19]
  • 72歳の12月、写真家中野六郎により自宅書斎デスクの前で撮影が行われ、翌年刊行される:『文化を創る人たち-湘南:中野六郎写真集』湘南写真工房、1994年8月、34頁。 NCID BA66977419 小倉遊亀城山三郎團伊玖磨ら各界の湘南在住112名の肖像。
  • 『道程:歌集』短歌新聞社〈立春叢書 第95篇〉、1990年2月。 NCID BA43781440 
  • NAID 500000317638
  • 松村潤「護雅夫先生追悼」『史叢』第57号、日本大学史学会、1997年3月、85-87頁、NAID 40001541331 
  • 三笠宮崇仁親王編 NCID BA06685947

toyo-bunko.repo.nii.ac.jp

id.nii.ac.jp

sakura.ne.jp

nairikuajia.sakura.ne.jp

okamiya.sakura.ne.jp

  • 目次”. 岡田宮脇研究室. 2024年10月2日閲覧。

sanseido-publ.co.jp

  • 目次”. 三省堂. 2022年12月22日閲覧。

tohogakkai.com

toyo-bunko.or.jp

waseda.jp

  • 小松久男「よき先輩、リーダーとしての佐藤さん」『イスラーム地域研究ジャーナル』第4号、2012年、6-10頁。「護先生は院生時代の佐藤さんの指導教官であり、早くから佐藤さんの将来を嘱望されていた。」 

wikipedia.org

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  • アルスラン・カイナルダアトルコ語版(1923-2008)。訳書に、A.ネスィンへとともに謝意を表している(p.309「つけたり」)。また編著『日土会話練習帖』(1966)でも協力を得た(「はしがき」)。A.カイナルダアは1997年Cumhuriyet Kitapにて護への追悼文を記している[62]
  • A.ネスィンとの交流はナスレッディン・ホジャが縁となり1960年代に始まる:翻訳(護 1965a)を思いたった際「イスタンブルの一古書肆の主人」[注 19]から「ホジャ研究の第一人者であるだけでなく、かれ自身が現代トルコのホジャである」とネスィンを紹介され、以後文通を交わす。1982年アンカラ滞在時に書店で出逢い、ネスィン基金財団本部へも赴く[63]
    ※D.ホサムも『トルコ人』の中で、ネスィンとホジャの諷刺・ユーモアについて記述している:(pp.227-234)。"ホサムの言を借りるなら、「ネシンは、きわめて平易に、しかし大変なウィットを駆使して書き、官僚社会のほとんどすべての面を揶揄する」":護 (1982b, p. 303) - ※訳書『トルコ人』刊行前の執筆であり、訳書中(p.233)の表現とは異なる。
  • ネスィンの短編集 2冊 Aferin(1959)/Yüz Liraya Bir Deli(1961)の翻訳原稿より16篇を集録(p.227:解説 林佳世子)。

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