高興 (百済) (Japanese Wikipedia)

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  • ウィキソース出典  (朝鮮語) グローバル世界大百科事典「三国時代の文学の特性」, ウィキソースより閲覧。 
  • 三国史記ウィキソース出典 金富軾 (中国語), 「百済本紀」近肖古王三十年条, ウィキソースより閲覧, "三十年 〔略〕冬十一月 王薨。古記云 百濟開國已來 未有以文字記事 至是得博士高興 始有書記 然高興未嘗顯於他書 不知其何許人也。
    (近肖古王)三十年 〔略〕冬十一月 王薨ず。古記に云う、百済開国已来、未だ文字を以て事を記する有らず、是(ここ)に至って博士 高興を得、始めて書記あり、然るに高興 未だ嘗て他書に顕(あらわ)れず、その何許(いずこ)の人かを知らざるなり、と。
    『(近肖古王の)30年〔略〕冬11月、王が薨じた。『古記』には「百済は開国以来、文字で事件を書き記すということが今までなかった。この(近肖古王の)時になって博士 高興を得て、初めて書記があった。しかし、高興は今まで決して他の書物に現れたことがなく、どこの人かも分からないのである。」という。』"
     
  • 右衞士督從三位兼下総守坂上大忌寸苅田麻呂等上表言。臣等本是後漢靈帝之曾孫阿智王之後也。漢祚遷魏。阿智王因神牛教。出行帶方。忽得寳帶瑞。其像似宮城。爰建國邑。育其人庶。後召父兄告曰。吾聞。東國有聖主。何不歸從乎。若久居此處。恐取覆滅。即携母弟迂興徳。及七姓民。歸化來朝。是則譽田天皇治天下之御世也。於是阿智王奏請曰。臣舊居在於帶方。人民男女皆有才藝。近者寓於百濟高麗之間。心懷猶豫未知去就。伏願天恩遣使追召之。 — 続日本紀、巻三十八