満洲事変 (Japanese Wikipedia)

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  • 関東軍は、9月18日、事件直後、奉天総領事館やマスコミに発生地点名を意図的に「柳条溝」として流し、満鉄の記録でも9月19日から「柳条湖」を「柳条溝」に訂正した。しかし、本来の地名は「柳条湖」であり、しかも独立守備隊の「柳条湖分遣隊」の存在もあったので、関東軍内でもすぐに「柳条湖」に改めている。したがって、戦前にあっては「柳条湖」・「柳条溝」両方の表記が錯綜し、やがて敗戦のためにこの修正の事実が忘れられ、発生時点での報道によって「柳条溝」がいったん定着した。その後、1960年代後半に本来の発生地名は「柳条湖」であることを明示した島田俊彦の研究が現れたが顧みられることなく、その後、1981年の中国人研究者の著作発表などによって「柳条湖事件」の名称が定着していった。この経緯については 山田勝芳「満洲事変発生地名の再検討――『柳條溝』から『柳條湖』へ」 が詳しい。

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  • 当時の宣統帝は、馮玉祥孫岳により紫禁城から強制的に退去させられ、天津の日本租界に避難しており、9月22日、関東軍が接触して決起を促し、代表者を派遣するよう連絡した。翌23日、羅振玉奉天の軍司令部を訪れ、板垣大佐に面会して宣統帝復辟を嘆願し、吉林煕洽洮南張海鵬蒙古諸王を決起させることを約束した。羅振玉は宗社党の決起を促して回り、鄭孝胥清朝宗社党一派は復辟運動を展開した。同日、蒙古独立を目指して挙兵し失敗したパプチャップの子ガンジュルシャップ石原中佐を訪れ、蒙古の挙兵援助を嘆願し、軍は武器弾薬の援助を約束した[47]。土肥原大佐も説得にかかり、満洲民族の国家である清朝の復興を条件に、溥儀は新国家の皇帝となることに同意した。